武田久が現役引退!日ハム退団後は日本通運に所属していたが・・・
北海道移転後の日本ハムファイターズを支え、「小さな鉄腕」とも呼ばれた武田久投手。ファイターズで戦力外通告された後も現役に拘り、社会人の日本通運でプレーしていました。
しかし、2019年限りで選手生活にピリオドを打つことを表明。今回はそんな彼について、詳しくご紹介していきます。
プロフィール
生年月日:1978年10月14日
出身地:徳島県徳島市
利き腕:右投げ左投げ
ポジション:投手
Jukeboxといえばこの人!
大将こと武田久!
現役生活お疲れ様でした #banbanradio pic.twitter.com/EhOf3EYnor— あっきりん@その先のミライへ (@_Akkirin) January 4, 2020
生光学園中学の2年時までは内野手を務めており、本格的にピッチャーになったのは中学3年からでした。生光学園高校、駒澤大学を卒業後、社会人野球の日本通運を経て2002年、ファイターズにドラフト4位で指名されて入団。
ルーキーイヤーから一軍で登板し、初勝利も経験しました。2006年にはリーグ最多となる75試合登板を果たし、40ホールドを挙げて最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得。
さらに2009年、2011年、2012年には3度に渡って最多セーブのタイトルも獲得。これはパシフィック・リーグ最多タイ記録です。2015年に両膝を故障して以降は登板機会も大きく減少し、2017年限りで日ハムを退団。
日ハム退団後
晩年は故障の影響やチームの若返りの方針もあり、徐々に登板機会が減っていた武田久投手。球団としてはそれまでの功績も踏まえ、選手以外の形による残留を持ち掛けましたが、彼が現役続行を強く希望していたことから戦力外通告となりました。
そんな中で打診を受けたのが、プロ入り前に所属していた日本通運でした。日本通運で監督を務めている藪宏明さんが、かつて武田久投手がプロ入り前に所属していた当時コーチであり、彼のことをよく知っていたことから会社に獲得を願い出た形だったのです。
また、プロでタイトルを取るほど活躍して大金を稼ぎながらも、オフに古巣である日本通運の練習場で黙々と走り続ける、かつてと変わらない姿にも胸を打たれたそうです。そして2018年から、日本通運でコーチ兼任という形でプレーすることに。
選手として大きな実績は無かったものの、投手として練習しながら若手への指導にも取り組みました。そして大学時代、怪我に苦しみドラフト候補とされながら指名漏れで日本通運に入社した生田目翼投手を指導して制球力を向上させ、ドラフト3位でファイターズに送り込みました。
その他プロ入りには至っていないものの、彼が再所属する前の2017年の都市対抗野球で、ベンチ入りも果たせなかった相馬和磨投手に本来のピッチングを取り戻させ、2年間でクローザーに定着させるなど若手の育成に大きく貢献したのです。
現役引退
日本通運で2シーズンを過ごした武田久投手ですが、11月30日付けで日本通運を退社。そして今後は選手としてプレーする意向が無いことを12月21日に表明し、現役を引退することが明らかに。
引退理由として兼任コーチという立場とは言え、2019年は選手としての練習を最低限しかしておらず、公式戦で一度もマウンドに上がれず、事実上コーチ専業だったことを挙げており、引退は必然の流れだと話しました。彼はかつて、2018年7月の都市対抗野球大会前のインタビューで次のように語っています。
元日本ハム武田久が現役引退 3度のセーブ王 今季は日本通運で兼任コーチ(スポニチアネックス)- Yahoo!ニュース https://t.co/fOthF09NY3
今年まで社会人野球・日本通運で選手兼コーチを務めた元日本ハムの武田久投手(41)が現役を引退することが20日、分かった。 pic.twitter.com/udpBE7z4Ot
— のもとけ (@gnomotoke) December 20, 2019
「辞めることは簡単だが、投げ続けることが怪我をした時にも応援し続けてくれた人たちへの恩返しになる」そういう意味では、完全に燃え尽きたとも言えるでしょう。
今後については、現段階では未定とのこと。しかしまた新たなフィールドで、彼らしく完全燃焼できるまで取り組んで欲しいですね。