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野村克也が王貞治と長嶋茂雄に対して漏らした本音がこちら・・・

   

「私の価値を下げられた」「あいつにだけは負けたくない」ID野球の産みの親ともいうべき野村克也さんですが、その野球人生は凄まじいものでした。

南海ホークス、ロッテオリオンズ、西武ライオンズでプレーした27年間の現役生活で、歴代最多記録となるベストナイン19回受賞、パ・リーグ最多記録の本塁打王9回、最優秀選手5回獲得などといった輝かしい功績を残しました。

1965年には、守備力が重視されるキャッチャーというポジションでありながら、戦後初の三冠王に輝いています。

選手を引退した後も南海、ヤクルト、阪神、楽天の監督を歴任し、名監督ぶりを発揮しました。

そんな名選手であり名監督であった野村克也さんが、「ON砲」と呼ばれ一時代を築いた2人のスター、王貞治さんと長嶋茂雄さんに思わず漏らした本音についてご紹介します。

偉いのはどっち?

「王さんとパパと、どっちが偉いの?」

これはまだ、小学生だった息子の野村克則さんから、父である野村克也さんに向けられた質問でした。

「もちろんパパだよ」と言いたかった父・克也さんでしたが、王さんは通算868本塁打という世界記録を樹立していました。

それに対して、野村さんの通算HR数は657本。

これは、王さんに次ぐプロ野球歴代2位の記録であり、ましてや守備の負担が大きいキャッチャーのポジションに就きながら打ち立てた記録。

野村さんもプロ野球を代表するスラッガーであることは間違いありませんが、それでも王さんより200本以上少ない数でした。

しかし、通算打席で野村さんは1万1,970打席と史上1位の記録を誇っています。

一方の王さんは、1万1,866打席で歴代2位です。

野村さんはこの記録を「長く第一線で活躍してきた証だ」と誇りに思っていましたが、「世界の王」としての王さんの人気には勝ち目がなかったと考えていたようです。

のちに同じプロの道に進む当時小学生だった息子・克則さんの質問に、「パパの方が偉い」とは言えなかったのでした。

ひまわりと月見草

野村克也さんが残した名言の中に「王や長嶋はひまわり、私は日本海の海辺に咲く月見草」という言葉があります。

この言葉はまさに、「王と長嶋は俺の値打ちを下げた」という野村さんの本音を表したものでした。

現役時代の野村さんは「3割、40本塁打」という目標を掲げ、それを達成した時、次に「王貞治に勝つ」ということを目標としたのです。

1963年、野村さんは52本のホームランを放ちました。

これは、それまで13年間も破られなかった、51本というシーズン最多本塁打記録を更新したものだったのです。

野村さんにとっては、血と汗と努力の結晶によって生み出された賜物でした。

しかし、「10年間は破られることはないだろう」と思った矢先、翌年に王さんがあっさりと55本塁打をマークし、野村さんの記録を塗り替えてしまいました。

野村さんが戦後初となる三冠王に輝けば、王さんもすぐに三冠王に輝き、マスコミのフラッシュを浴びることに。

王さんはセ・リーグの、しかも読売巨人軍という人気球団の選手でしたが、野村さんは当時はまだ日陰のような存在であったパ・リーグの選手でした。

「通算本塁打数、安打数、打点、出場試合回数。私の記録は2位ばかりだ。ホームラン、打点は1位だったのだが王に抜かれた。もしも王がいなければ私が日本一のホームランバッターだった」

と、野村さんは述懐しています。

そして、「王貞治に私の価値を下げられた」とぼやいたのです。

「王や長嶋はひまわり、私は月見草」という名言が飛び出したのは、野村さんが通算600本塁打を記録した時、マスコミの取材に応じた中で出た言葉でしたが、王さんと自分との現状を言葉にしたものだったようです。

長嶋茂雄と野村克也

同じライバルでも、長嶋茂雄さんに対しては、野村さんの思いは少し違っています。

東京六大学のスター選手だった長嶋さんは、立教大学の先輩である大沢啓二さんのツテで、南海に入団することになっていました。

当時、野村さんは大沢さんに、「俺の後輩の杉浦と長嶋が南海に来ることになったからよろしく頼むよ」と言われていました。

その時野村さんの胸中は、複雑に波打っていたようです。

「長嶋が来たら、俺は4番を下されるのかな」

それを新聞記者に話した野村さんは、

「君はキャッチャー。疲れるポジションなんだから5番でいいじゃないか」と言われてしまったのです。

長嶋さんは根っからのスター選手で、鳴り物入りでプロの世界に入ってきましたが、野村さんはテスト生から這い上がってきた選手でした。

その違いを、まざまざと見せつけられた瞬間だったのです。

しかし、王さんや野村さんが長距離打者だったのに対し、長嶋さんは中距離打者という位置付けでした。

打者としてのスタンスに違いがあったことから、野球選手として長嶋さんと野村さんはそこまでぶつかることはありませんでした。

野村さんが長嶋さんをライバル視したのは、むしろ監督時代です。

長嶋さんが巨人の監督、野村さんがヤクルトの監督をそれぞれ務めていた時には、激しく火花を散らしていました。

その戦いは、長嶋さんが巨人の監督に就任した1993年から始まり、野村さんがヤクルトを退団した98年まで続きました。

92年、93年、95年、97年とヤクルトが優勝すれば、94年、96年、00年は巨人が優勝と、両チームは毎年のように因縁の対決を繰り返したのです。

野村さんは当時を振り返って、次のように語っています

「監督になってからの長嶋には負けたくないと思っていた。というより『長嶋・巨人』に負けたくなかったと言った方が良いかもしれない。巨人に勝って初めて実力を認められるし、人気を勝ち取れると思っていた」

日本シリーズで「打倒・巨人」と銘打って激しく火花を散らしたのも、「王や長嶋はひまわり、私は月見草」という思いがあったからだったのかもしれません。

まとめ

「あいつだけには負けたくない」そんな思いで頑張ってきたという野村克也さん。

「王貞治というライバルがいたから、自分が抜かれないように努力を重ねる。『あいつもやっているから負けられない』と辛い時でも頑張れる」

と、野村さんはライバルの重要性を語っています。

ヤクルトの監督時代には、長嶋さんに対して時に口撃することも厭わなかった野村さん。

ライバル心をむき出しにした野村さんについて、同じチームに所属したこともあった江本孟紀さんは、

「本当は長嶋ファンだった。長嶋さんのことを好きだったし憧れていた」と語っています。

野村克也さんがライバル視した、王貞治さんと長嶋茂雄さん。

煮えたぎるような熱いライバル心の奥には、尊敬と憧れがあったようです。

思わず漏らした、「俺の値打ちを下げた」という言葉の裏には、憎っくきライバルではあるものの、長年の深い絆があるようにも思います。

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