落合博満が見抜いたアライバコンビの変化「野球を舐め始めた」
2022/03/27
04〜11年まで中日ドラゴンズの監督を務め、4度のリーグ優勝にくわえ、07年にはセ・リーグ2位から日本シリーズに出場し、チームを53年ぶり2度目の日本シリーズ優勝に導いた落合博満さん。
監督在任期間中は全ての年でAクラス入りを果たし、名選手というだけでなく名監督であることも証明してみせました。
そんな落合政権下の中日を代表する選手といえば、鉄壁の二遊間「アライバコンビ」の荒木雅博さんと井端弘和さんでしょう。
しかしこの二人に対して、落合さんは中日のゼネラルマネージャーを務めていた時に、
「野球を舐めはじめた」と発言したことがあったのです。
荒木さんは野球に対して人一倍貪欲であったものの、マイナス思考が強すぎることからオーバーワークになりがちであったため、監督時代に猛練習を選手に課したことで知られる落合さんをして、練習をやめるように指示された選手だったのです。
そんな荒木さんと、彼と鉄壁の二遊間コンビを築き上げた井端さんが、野球を舐め始めたとはどういうことなのでしょうか?
アライバコンビ
荒木選手は96年、井端選手は98年に入団し、ともに01年頃からレギュラーとして定着するようになりました。
荒木選手の方は、01年の時は外野手として登録されていましたが、02年から内野手にコンバートされ、二塁手のレギュラーに定着。
この年から井端選手との二遊間コンビとなり、ここにアライバコンビの歴史が始まりました。
以後、アライバコンビは13年までの12シーズンに渡って続きます。
荒木選手と井端選手は、落合さんが監督となった04〜09年まで、6シーズン連続でゴールデングラブ賞を受賞しています。
また、ベストナインも04〜06年まで、3年連続で受賞しています。アライバコンビは守備のみならず、攻撃でも「1、2番コンビ」を組んで活躍し、クリーンナップに繋げる役割を果たしていました。
公式戦において、ふたりが初めて同時に出場したのは00年5月19日ですが、この時は代走で途中出場の荒木選手が中堅手、代打で途中出場の井端選手は右翼手の守備に就いており、二遊間ではなく右中間でコンビを組みました。
そんなアライバコンビの足枷になっていた選手として、当時チームで一塁手を務めていたタイロン・ウッズ選手の名が挙がります。
彼はその極端な守備範囲の狭さから、荒木選手を送球イップスに追い込み、ある時井端選手が投じた頭部付近へのノーバウンド送球をミットに当てることすらできず後ろに逸らしたことから、井端選手が
「あれも俺のエラーになるの?」と嘆いた逸話も残っています。
ただし、荒木選手は引退後、「自分がイップスになったのはウッズのせいではない」と強調しています。
また、井端選手は荒木選手についてこんな風に語っていたことがあります。
「夫婦って、付き合っている時は会話があるし楽しいけど、夫婦になると自然と会話が減っていくじゃないですか。それでもお互いに何を考えていて、どうしてほしいかはなんとなく通じ合っているもの。夫の仕草ひとつで、妻がお茶を出す。僕と荒木はそれに近い関係だったような気がします」
荒木選手の方は、
「若手時代は周りから、『お前ら、そんなにしゃべっていて大丈夫か?』と言われるくらい話していたような記憶がある」
と、井端選手との会話があったことを認めています。何しろ、2人が同時にドラゴンズの選手寮を退寮した際には、同じマンションに転居したくらいです。当時のいきさつについて井端選手は、
「荒木は優柔不断というか、何もしない男だったので…」と語っています。
「お互いにそろそろ寮を出ないといけないタイミングなのに、荒木は次に住む家さえ決めてないんです。僕が引っ越しの準備をしていると荒木が部屋に来て『井端さん、家はどこにしたんですか?』と聞いてきて。僕は新築で家賃も手頃なマンションを見つけていたので教えたら、荒木は『まだ空いてますかね?』って聞いてきた。『空いてるんじゃないか?』と確認したら空き部屋があったんです。『じゃあそこへ行きます』と、僕と同じマンションに住むことになったんです」
同じマンションに住むようになってから、すでに遊撃手のレギュラーを奪っていた井端選手に続き、荒木選手も二塁手の定位置を確保しました。それからは公私にわたって、時間を共に過ごすことも増えていったそうです。
アライバコンビは、守備面での記録もいくつか残しています。この記録は一シーズン単位のもの、ドラゴンズ在籍時の両者、および別選手との合算の記録です。
まず、03年の守備率.99254、アウト数1,065、失策数8というのは、NPB5位の記録です。
次に、05年の守備率.99251、アウト数1,590、失策数12という数字は、NPB第6位の記録。
そして、 04年の守備率.9929、アウト数1,407 失策数10はNPB3位の記録でした。
野球を舐め始めた
当時、監督を退任してゼネラルマネージャーに就任していた落合さんは、荒木さんと井端さんについて、
「野球を舐め始めた」と語りました。この発言の真意は、こうです。
「あの二人は、体ではなく目で打球を追うようになった。楽することを覚えたんだ。だから、また一から守りを勉強してもらう」
そして、セカンド荒木選手、ショート井端選手という二遊間をそのままコンバートし、セカンド井端選手、ショート荒木選手という布陣にしたのです。
タイロン・ウッズ選手やトニ・ブランコ選手など、助っ人外国人の一塁手は守備位置からベースに戻るのがやや遅かったため、ゴロを捕球してスローイングしようとする荒木選手に、一拍待ってしまうクセがついてしまいました。
このコンバートは、それを遊撃手で忘れさせるためであったり、井端選手の脚力が落ちた為とも言っています。
監督退任から7年が経った2018年、荒木選手が現役生活に区切りをつける際、さらに先を睨んだ考えがあったことも語っています。
「もともと2年限定のコンバートにするつもりだった。スローイングがスムーズになった荒木を二塁手に戻せば、プロ野球史に残る二塁手になれると考えていた。また、井端は三塁手、森野は一塁手という布陣にして、将来のチームを背負える遊撃手を育てようとした」
その遊撃手は未定のままとなりましたが、荒木選手と二遊間を組み、井端選手と三遊間を組めば、それだけで優秀な守備コーチに鍛えられているようなものでしょう。
「選手はコーチではなく選手同士で鍛えられる」という持論を持つ落合さんならではの育成案だったようです。
しかし、そんな夢のプランは実現しませんでした。
まとめ
いかがでしたか?
落合さんが最も信頼していたであろうアライバコンビ。
そんな2人が野球を舐め始めるなんて、なかなか衝撃的な発言だと思いましたが、そこには落合さんの確かな育成理論があったようです。
数々の記録を残し、十分すぎるほどの実績があったこのコンビをコンバートさせるというのは、相当な覚悟が必要だったと思われます。
そして、このコンバートは2人のためだけではなく、将来の中日ドラゴンズのことを考えたコンバートだったようです。
現在、中日ドラゴンズは立浪和義さんが監督を務め、荒木さんが一軍の内野守備走塁コーチを務めています。
今後、かつてのアライバコンビのような名手が誕生することに期待したいですね。