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清原和博が激怒した堀内恒夫の采配「あいつのタマ(命)取ったるわ」

   

球界の「番長」として、野球界を盛り上げてきた清原和博さん。

高卒1年目のルーキーから3割30HRを達成するなど、屈指の強打者として活躍していました。

しかし「番長」という呼び名からもわかるように、やんちゃな一面で球界を騒がせていることでも有名でした。

そのため、多くの人との不仲説や、揉めたエピソードなどの噂が流れているのも事実です。

その中の1人に、清原さんが巨人に在籍していた時に監督を務めたことがある堀内恒夫さんがいます。

堀内さんといえば、現役時代は巨人の絶対的エースとして君臨し、その後政界へと進んだこともある人物です。

今回は、この2人の関係について詳しくご紹介していきます。

確執の始まり

清原さんと堀内さんの確執の発端は、堀内さんがヘッドコーチを務めていた98年にさかのぼります。

ある日、札幌円山球場で練習をしていた際、選手たちは雨の中を走るように指示されていました。

そんな中、なんと首脳陣はベンチ裏で弁当を食べていたのです。

それを聞いた清原さんは激怒し、コーチ室にいた堀内さんにどなりこみ、文句を言いにいきました。

この時清原さんは、パイプ椅子を投げるなどして暴れまわったそうです。

これがきっかけで、両者には確執が生まれたとされています。

ランニングの指示は、雨でも球場に駆けつけていた観客に、少しでも選手の姿を見せてあげようというファンサービスだったとされています。

清原さんがそのことを知っていたかどうかはわかりませんが、選手が雨に当たりながら練習している中、首脳陣が雨の当たらない室内でくつろいでいたという事実に、納得できなかったのかもしれません。

また堀内さんが04年に監督就任した際、清原さんが二軍スタートに追いやられたのは、この時のトラブルが原因だったのではないかとも言われています。

二軍降格とハイタッチ拒否

先ほどもご紹介した通り、堀内さんが04年に監督に就任した際、清原さんは2月のキャンプは二軍スタートとなりました。

一軍の選手が暖かいグアムでキャンプをしている中、まだ寒風吹き荒ぶ宮崎へと追いやられる格好となります。

宿舎は二軍の選手と一緒であり、義務として朝6時半からの散歩がありました。

また、当時はまだ球場もブルペンも建設途中で、ろくに設備が整っていませんでした。

そんなあまりに惨めな扱いだったことから、清原さんは

「二軍は監獄に入れられてるみたいだった」とチーム内で不満をぶちまけていたそうです。

こうした出来事を経て、ついに起きてしまったのが「ハイタッチ拒否事件」です。

清原さんと堀内さんの確執をあらわすエピソードとして、最も有名なエピソードかもしれません。

05年8月4日、広島市民球場で行われていた広島カープとの試合でのこと。

清原さんは、試合前に首脳陣から「打順は7番」と伝えられます。

これに対し清原さんは理由を聞くも、当時のヘッドコーチは「俺は知らない」と言ったそうです。

続いて清原さんはヘッドコーチに、

「なんで7番なんですか?7番だったら休ませてください」と食ってかかったそうです。

それでもヘッドコーチは、「俺もわからない」と言ってきたので、清原さんは仕方なくそのまま試合にでました。

すると清原さんはその後、ベンチで携帯電話で電話していた相手に

「今日な、7番やで!阿部より下や!」と、周りに聞こえるように話していたそうです。

この日の清原さんは、そんな中で二打席目にホームランを放ちました。

そしてホームランを打ってベンチに帰った際に、「ハイタッチ拒否事件」が起きてしまいました。

なんと、清原さんはベンチにいる堀内監督や、コーチや他の選手の出迎えのハイタッチを完全にスルーしてしまったのです。

これについて清原さんは、「怒りの一発や!」と、球団を通じてコメントをしており、7番に降格したことに対する不満を爆発させたのでした。

のちに清原さんは自身のYouTubeチャンネル「清ちゃんスポーツ」で、この事件のことを振り返っています。

7番といわれた清原さんは自暴自棄になってしまい、

「わざわざ打って走るのめんどくさいし、全部三振しよう」と、一打席目は一度もバットを振らず、わざと三振に倒れたそうです。

ですが、二打席目は自分でも予想外の行動をしてしまったのだとか。

「ボールがピューンて曲がってきたんですよ。それでポーンと本能的に打ってしまったんです」

と発言しています。

なのでこのハイタッチ拒否事件は、清原さんの類まれなる野球センスのせいで起きてしまったと、いっても過言ではないかもしれません。

清原さんは、

「ベンチの前で出迎えてくれているわけですよ。カッカきているんでそれをスルーして帰っていった」

と当時のことを振り返っていました。

ホームランを打ったからといって、その怒りが収まることはなかったようですね。

また清原さんは「そうしたら反逆罪とみなされて」と、この事件がもとで8月13日に登録抹消され、その後の戦力外通告にもつながったのではないかと推察していました。

ハイタッチを拒否したことだけが原因ではないと思いますが、結果的に戦力外通告されているので、この行動は正しくなかったかもしれませんね。

Tシャツの真相

このように堀内さんと揉めていた清原さんですが、過去には和解しようと試みたこともあったそうです。

清原さん自身が「堀内と和解する」と宣言し、「堀内命」と書かれたTシャツを着ていたことがあったのです。

ですが、そのシャツには「獲る」という文字も印刷されていました。

これはつまり、シャツに印刷された文字を組み合わせると、「堀内の命獲る」という意味になるのです。

和解宣言したものの、結局はまったく和解する気がなかったようです。

トークショーで清原さんと対談していた金本知憲さんは、このTシャツに対し、

「見た時は大笑いしましたよ」とコメントしていました。

これを見る限り、清原さんと堀内さんの和解は、なかなか険しい道のようです。

まとめ

いかがでしたか?

堀内さんとのやり取りを見るに、清原さんの行動は「番長」という異名にふさわしいといえそうです。

堀内さんも「悪太郎」というあだ名を持ち、良からぬ噂が流れる人物ですが、そんな悪太郎と番長はどうやら水と油のように合わなかったようです。

堀内さんが監督をしていた2005年、巨人は球団ワーストとなる80敗を記録し、Bクラスに沈みました。

こうも選手と監督に不協和音が流れていたとするならば、そのようにチームが低迷してしまうのも無理ないかもしれませんね。

現在、清原さんと堀内さんがどのような関係になったのかは不明ですが、2人が健在のうちに本当の意味で和解できると良いですね。

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