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広岡達朗が川上哲治を「下手くそ」と猛批判した結果・・・

   

王貞治さんや長嶋茂雄さんらと共に、遊撃手としてジャイアンツを支えた広岡達朗さん。

しかし現役の頃から今に至るまで、歯に衣着せぬ物言いが話題になり、様々な人と衝突したことがありました。

中には打撃の神様と称され、ジャイアンツの大先輩である川上哲治さんと衝突したこともあったのです。

打撃の神様との衝突

広岡さんについては、当チャンネルの別の動画で詳しくご紹介しているので、そちらをご覧ください。

54年4月27日、当時広岡さんはまだ1年目のルーキー。

一方の川上さんはプロ14年目のベテランで、チームの大黒柱ともいうべき存在でした。

この日の試合の9回裏、広岡さんが守っている遊撃にゴロが2回飛んでいきました。

広岡さんがそれらを捌くと、川上さんが守っている一塁へ送球します。

それらの送球は、いずれも手を伸ばせば捕れるようなボールでした。

しかし川上選手はそれを捕ることができず、相手に1点を与えてしまいます。

結局この日、ジャイアンツは逆転負けを喫します。

当記者から悪送球について質問された広岡さんは、

「あのくらいの球を捕らない一塁手がいて野球ができるかい!」と発言。

チームの大先輩であり、打撃の神様とも称された川上さんをストレートに批判したその発言は、翌日の新聞にデカデカと掲載されてしまいます。

「川上さんには入団から引退までずっといじめられた」

とのちに広岡さんは述べていますが、これは序章だったのかもしれません。

川上選手は打撃こそ超一流だったものの、一塁手の守備に関しては

「捕れないものは最初から捕りにいかない」

という傲慢な態度をとり、チームメイトから不評を買っていました。

当時二塁手を守っていた千葉茂さんも、

「一塁すぐ横のゴロまで取らなければならなかった」と述べています。

それから時は流れ60年11月、現役を引退した川上さんはジャイアンツの監督に就任します。

川上さんは広岡さんの指導力に目を付け、

「今までいろいろあったが水に流してくれ。これからは力になってほしい」

と頭をさげ、広岡さんはコーチ兼任選手となります。

そして、翌年には2年ぶりにリーグ優勝を果たし、6年ぶりに日本一に輝きました。

しかし64年8月6日の国鉄スワローズとの試合の時に、またしても衝突は起きてしまいました。

巨人が0-2とリードされた7回表、一死三塁の場面で三塁走者の長嶋選手が本盗を敢行してアウトになったのです。

そして、打席に立っていた広岡選手も三振。

川上監督のサインで長嶋選手が本盗したと解釈した広岡さんは、

「自分の打撃がそんなに信用できないのか」と激怒し、試合途中で帰宅してしまいました。

のせいか球団内での立場は悪くなり、それから2年後に広岡さんはひっそりと引退しています。

67年に引退した広岡さんは、米国のベースボールを学びに渡米中、OBとして古巣巨人のキャンプを見にサンフランシスコに向かいましたが、キャンプの見学については川上監督から断られてしまいます。

ジャイアンツは川上監督のもとで、65〜73年にかけて9年連続で日本一に輝きました。

いわゆるV9の時代です。

王貞治さんや長嶋茂雄さんというスーパースターの存在ももちろん大きかったですが、球史に名を残す名手や投手がいたこともあり、精密機械のような「守りのチーム」だったともいわれています。

守備についてはチーム内外から酷評されていた川上さんが、監督になって守りのチームを作り上げたというのは驚きですね。

実は、川上さんは監督になってから『ドジャースの戦法』という本を読み、守備の重要さに気が付いたともいわれています。

川上さんは選手時代、

「打撃練習では待ち時間など気にせず好きなだけ打つが、そのくせ守備練習は一切しないから守備は下手くそのままだった」

といわれています。

そんな川上さんが、ドジャース戦法なる守備重視のスモールベースボールを実践したのですから、ある意味では皮肉とも言えますね。

指導者としての広岡達朗

69年、広島の根本監督より頼まれ内野守備走塁コーチに就任した広岡さん。

このとき、現在にいたる広島の基礎が築かれました。

その経験をもとに、広岡さんは次のように指導者についてコメントしています

「プロに来る選手はだれでも大変な才能を持っている。しかし、答えの出し方を知らないから自分には才能がないと思い込んでしまう。その答えを泥まみれになりながら選手とともに探してやるのが指導者の務め」

「選手と指導者にやる気があれば、選手は必ず答えを見つけて上達してくれる」

78年にはヤクルトスワローズの監督として日本一に輝き、82年と83年にも西武ライオンズの監督として日本一を達成しており、名監督として評価を確立した広岡さん。

しかし、西武ライオンズの監督4年目を迎えた85年。

日本シリーズでは阪神に負けたもののパ・リーグを制覇した広岡監督は、監督権限を強化するようにフロントに要望。

しかしこれを聞き入れてもらえず、夕刊紙にてフロント批判を繰り返しました。

このことを問題視した球団は広岡監督に辞任を促し、5年契約だったにもかかわらず、あと1年を残して突然の辞任となりました。

リーグ制覇した監督が、契約をあと1年残しながら退任したというのは、かなりの異例と言えるでしょう。

広岡さんは、「相当良い仕事をしているのにクビになった」

と話していますが、一方で当時正捕手だった伊東勤さんは、友人と旅行中のSAで広岡監督の辞任を知り、

「ビールを買って小宴会みたいになった。あの厳しさから解放されると思うとホッとした」と述べています。

まとめ

後年、広岡達朗さんは川上哲治さんについて、

「2軍の投手を連れて行ってよく打撃練習をしていた。打撃は来た球を打てばいいと教えてくれた」

と話しています。

また、

「最初からうまく打とうとするから打てない。疲れてくると力が抜けて、来た球を打てるようになる」

とも教えられたことから、川上さんに感謝を述べています。

一方で、巨人の顔ともいうべき存在だった川上さんでしたが、調子が悪いと

「俺は試合に出ない」と言ったりもしていたそうです。

現役当時に、昔ながらの練習や先輩からのいじめに苦しんだ広岡さんは、

「名監督とは?」との質問に

「昔ながらの指導法、トレーニングは押し付けないと駄目」

とも述べており、良くも悪くも川上さんの影響を受けていたようです。

78年、巨人との日本シリーズに臨んだ広岡監督率いる西武ライオンズ。

西武は見事に巨人を倒して日本一に輝きました。

しかし後日、日本シリーズで優勝したことを入院していた川上哲治さんに報告に訪れた広岡さんは、川上さんから

「ばかやろう!お前らいつでも勝てるのに。巨人に勝たせてやれ」

と怒られたそうです。

今の時代は、選手同士が球団の垣根を越えて一緒に自主トレをしたりと、選手同士の仲の良さがSNSなどを通じて垣間見えるようになりました。

しかし、昔のプロ野球選手はたとえ同じチーム内であったとしても、そのこだわりの強さが大きな衝突や摩擦を生むこともあったようです。

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