元楽天の鉄平が野村克也の裏の顔を暴露!?「話したことがない。むしろ無視されてた」
プロ野球を代表する名監督といえば、野村克也さんを思い浮かべる人も多いのではないでしょうか?
今回はその野村監督から、
「話したことがない。むしろ無視されてた」
と話す、首位打者をも獲得したことがある楽天の選手のエピソードをご紹介します。
ノムさんの指導法
野村さんが残した言葉の中でも特に有名なのが、
「三流は無視、二流は称賛、一流は批難」という名言でしょう。
指導者によって褒めて育てるタイプ、厳しく育てるタイプの人がいますが、野村さんの場合は人によって指導者は態度を変えるべきだと説いています。
そんな野村さんが、これまでに育ててきた選手を何人か紹介しましょう。
まず最初にあがる選手といえば、古田敦也さんではないでしょうか?
野村政権下のヤクルトで、古田さんは強打の捕手として首位打者も獲得しました。
また、ベンチでは野村監督のすぐそばに座り、野村さんが古田さんを英才教育している様子は有名ですね。
次にあがるのは、現在日本ハムファイターズで監督をしている、ビッグボスこと新庄剛志さんでしょう。
新庄さんが阪神に所属していた時、ちょうど監督が野村さんでした。
野村さんが阪神の監督の時に新庄さんに指示した驚きの内容については、こちらをご覧ください。
最後にもう1人、代表的な選手としてメジャーリーグでも活躍した、現在楽天イーグルスでプレーしている田中将大投手が挙げられるでしょう。
田中投手は野村さんが楽天で監督を務めている時に、駒大苫小牧からドラフト1位で入団しました。
野村さんは当時から彼に対し、将来は球界のエースになると断言していました。
そんな田中投手のプロ初登板は2回6失点とほろ苦いものとなりましたが、野村監督はそれでも彼を使い続けました。
そうして勝ち星を重ねた田中投手に対し、
「マー君神の子不思議な子」とインタビューで語ったことも有名ですね。
そしてのちにプロ野球新記録となる28連勝を樹立し、まさに球界を代表する投手になりました。
首位打者を無視!?
楽天時代に野村監督に見出されたある選手が、実は野村監督から無視されていたと明かしました。
その選手とは、首位打者を獲得した経験もある鉄平選手です。
鉄平選手は、00年に中日ドラゴンズに入団した外野手です。
05年オフに楽天に移籍するまでは、1軍でほとんど実績を残すことができていませんでした。
鉄平選手が所属していた頃の中日の外野には、
のちにメジャーリーグにも挑戦した福留孝介選手や、
強肩が持ち味のアレックス・オチョア選手などがいて選手層が厚く、なかなか出場機会に恵まれませんでした。
そんな中、当時中日で監督を務めていた落合博満監督の配慮で、他のチームであればチャンスがあるかもしれないと、金銭トレードで楽天に移籍したのです。
そして野村政権下の楽天に移籍すると、いきなり打率.300をマークするようになります。
高い身体能力と巧みなバットコントロールで移籍後すぐに活躍したことから、
「中日はどうしてこんな良い選手を出したかわからん」と野村監督が言い放ったほどでした。
しかし、そんな鉄平選手も野村監督から何か直接特別な指導をされた経験は少なく、ご本人曰く
「ずっと無視されてた気がする」とのこと。
野球のことで面と向かって声をかけられたことはほとんどなく、野球以外の他愛ない話題ではたまに話をする程度だったとのこと。
そのことから、先ほどもご紹介した野村さんの
「三流は無視、二流は称賛、一流は批難」という名言から、鉄平選手は
「僕は三流で嫌われてたんですかね」と自虐するのでした。
そんな中で、鉄平選手がどうやって野村監督の考えを自分の頭の中に落とし込むのかというと、キャンプで毎日行われていた全体ミーティングでした。
また、コーチづてで野村監督からの教えを受けたこともあったとのこと。
そして鉄平選手は、そうして野村監督から教わったことをノートに書き留め、それは何冊にも及び、調子を落とした時に何度も読み返していたそうです。
鉄平選手は引退後打撃コーチとなり、後輩達に野村監督から教わったことを伝えています。
野村再生工場
野村さんが監督を務めたチームは、しばしば
「野村再生工場」などと呼ばれ、成績が落ちてきたベテラン選手が蘇ったりしました。
先ほどご紹介した鉄平選手も、そのうちの1人と言えるでしょう。
そんな野村再生工場のもとで息を吹き返した、代表的な選手を紹介していきましょう。
1人目は、遠山奬志投手です。
彼は85年にドラフト1位で阪神タイガースに入団。
その後ロッテに移籍し、一度打者に転向したこともありました。
97年に戦力外通告を受けた後、98年に古巣阪神に復帰。
野村監督は、遠山投手を左のワンポイントリリーフとして活用することにし、彼をサイドスローに転向させ、左打者の内角に食い込むシュートを教え込みます。
その結果、ジャイアンツの顔ともいうべき存在の松井秀喜選手から、
「顔も見たくない」と言われるほどの存在になりました。
野村再生工場のもとでメキメキと復活する遠山投手でしたが、ある時から野村監督は、
左打者1人抑えただけで遠山投手を交代させるのはもったいないと感じるようになります。
そんな時に、遠山投手と右のアンダースロー投手である葛西稔投手を、打者1人ごとに代わる代わる投げさせるという異例の投手リレーを思いつきます。
野球ではルール上、一度試合に出てベンチに下がった選手は、同じ試合では二度と出場できなくなります。
なので葛西投手と遠山投手はどちらか一方が投げている間、一度普段は守ることのない野手のポジションにつかなければなりません。
しかし、葛西投手が学生時代に野手の経験があり、遠山投手もロッテ時代に野手を経験したことから、この
「遠山・葛西スペシャル」と言われる投手リレーは見事成功したのでした。
続いて紹介するのは、小早川毅彦選手です。
彼は広島東洋カープで入団1年目からレギュラーを獲得し、規定打席到達、打率.280、16HRという成績で新人王に輝きました。
その後、89年に打率を.300に乗せましたが、次第に出場機会が減っていき、96年に戦力外通告を受けた後、ヤクルトスワローズに移籍します。
野村監督は小早川選手に対し、
「お前は大学で1年から4番、プロで新人王。だから移籍1年目も必ずやれる」
と声をかけ、開幕戦からスタメンで抜擢。
その言葉通り、開幕戦で当時巨人のエースだった斎藤雅樹投手からホームランを3本放ち、復活を印象付けました。
最後に紹介するのは、山﨑武司選手です。
山﨑選手は中日ドラゴンズでHR王を獲得したこともありましたが、成績が伸び悩んでオリックスを戦力外通告された36歳の時のこと。
引退も噂されていた中楽天に移籍し、野村監督の指導を受けることになりました。
そして配球についての指導を受け、来た球を打つだけというタイプだった山﨑選手は頭を使って打席に立つようになります。
その結果、39歳の07年に43本のHRを放ち、セ・パ両リーグでHR王を獲得しました。
戦力外を経験した後HR王に輝いた山﨑選手は、野村再生工場の最高傑作とも言われています。
まとめ
いかがでしたか?
野村克也監督は、球界を代表する名選手を何人も育てました。
野村監督のすごいところは、他の球団で成績が落ちていた選手や芽が出なかった選手を、一流のプレイヤーに育て上げている所でしょう。
「三流は無視、二流は称賛、一流は批難」とは、選手によって指導法を変えるというものです。
指導法の効果はこれまでの野村監督が育てた名プレイヤーを見れば一目瞭然でしょう。
野村監督の残した言葉は野球界だけでなく、さまざまなシーンで役に立つことも多くあります。
私たちも指導法や組織の作り方など、野村監督から多くのことを学ぶことができるかもしれませんね。