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真弓明信が金本知憲の現役続行宣言に頭を悩ませた理由!連続試合出場記録の末路・・・

   

11年、ペナントレースがいよいよ大詰めを迎えた頃、優勝やCS争いより話題になったのが、オフを待たずして始まったストーブリーグです。

当時阪神で監督を務めていた真弓明信さんですが、この時の真弓監督には金本知憲選手のことなどで、相当切羽詰まっていたことがうかがえるエピソードがあります。

切羽詰まった真弓監督

11年、その年で3年契約が切れる中日の落合博満監督が退任し、新しく中日OBの高木守道さんが就任しました。

落合さんはこの年、球団史上初のリーグ連覇に望みをつないでいた状態ながら、シーズン途中で解任が発表され、激震が走りました。

そんな中で、同じ時期に落合さんと同い年である阪神の真弓監督も危ないとの噂が流れました。

球団オーナーは続投を宣言しましたが、あくまで

「契約が残っているから」という後ろ向きな理由でした。

真弓監督もそれをわかっているのか、当時の様子は余裕のなさがうかがえました。

例えば、真弓監督の誕生日のこと。

真弓監督に報道陣から特大のケーキとプレゼントが贈られました。

その日が巨人戦ということにあわせて、ジャイアンツの頭文字である

「G」と書かれたケーキにかぶりついてもらう、という絵を報道陣たちは期待していました。

しかし、本人は食べるふりをするだけで、

「ありがとう」と言い残してそそくさと去ってしまったのです。

プレゼントする予定だったiPadも、渡す余裕などありませんでした。

CS進出を逃すと、続投が白紙になりかねないので、頭の中はそれで一杯だったのかもしれません。

そしてこの時真弓監督には、もう1つ頭の痛い悩みがありました。

それは、金本知憲選手の存在です。

この時の金本選手は、連続試合出場の記録がかかっていたのですが、それこそがまさに真弓監督にとっての悩みの種だったのです。

金本選手の連続試合出場記録は広島時代の98年8月22日からスタートし、03年にFA権を行使して阪神タイガースに移籍した後も、その記録を伸ばし続けました。

そして07年には、歴代2位だった松井秀喜選手の記録を抜き、史上2位となりました。

また、1,492試合連続フルイニング出場という世界記録も樹立した、まさに鉄人というべき存在でした。

しかし、10年以降は打撃不振が続き、守備も中継にさえまともに投げられない厳しい状態になっていました。

それでも、金本選手には連続試合出場の記録がかかっており、真弓監督は金本選手を切るべきなのかどうか、ひどく悩んでいたそうです。

真弓監督の中では、金本選手を切ることが監督としての最大の仕事であるとも言われていました。

結果的に11年4月14日の中日戦で、金本選手の記録は途切れることになります。

8回表、二死一塁で金本選手は久保田智之投手の代打として打席に立ちました。

この時、一塁走者の俊介選手が盗塁に失敗し、金本選手は打席を完了することなくチェンジとなりました。

その裏、代打した金本選手に代わって、小林宏之選手が投手に。

この場合、金本選手に「試合出場1」はつきますが、公認野球規則では打席を完了していない場合、連続試合出場は継続とみなされません。

よって金本選手の記録は、この日「1,766」で途切れたのでした。

連続試合出場の記録に引導は渡しましたが、金本選手が現役続行の意向を見せたことに、真弓監督は困っていたそうです。

チーム内でも、「金本はいらない」というのがもっぱらの評判でした。

金本選手の記録を途切れさせた張本人、ともいうべき立場になった真弓監督。

その後も金本選手が現役を続行するということであれば、記録を途切れさせたことでわだかまりが起こる可能性もあります。

しかし一方で、そんな現役を続けたいという金本選手もこの時もう衰えは隠しきれず、

試合に出るにしても代打で、守備については肩の調子などから、重要な場面では任せられないものになっていました。

お互いにチームにとって、厳しい立場となっていたのです。

そんな中で、2人の心中はどのようなものだったのでしょうか?

それぞれの最後

結局11年、阪神は4位でCS進出を逃しました。

真弓監督はその責任をとる形で辞任。

後任には、当時打撃コーチを務めていた和田豊さんが就任しました。

一方、現役続行を宣言した金本選手も1年後に引退。

プロ21年目、44歳でした。

引退を発表した記者会見で、最初は笑顔を見せていた金本選手でしたが、これまで支えてくれた家族について話が及ぶと感極まりました。

「子供には言いました。大泣きしていました。でもいつかは辞める時が来るわけだからと。あとは母親に一番最初に伝えました」

母にかけられた言葉を聞かれると、

「体のケアだけは…。それだけですね」

「落ちぶれてからはバッシングも多かったですが、それでも一生懸命応援に…」

上を向いて落ちないようにしていた涙があふれました。

引退を考え始めた時期については、

「10日前ぐらいで、本当の決断はおととい」と明かしました。

9/9、3度のチャンスでことごとく凡退した甲子園での広島戦の翌日のことでした。

甲子園球場のクラブハウス内で、南球団社長と話し合いの場を持ちました。

南社長は進退について、金本選手自身に委ねたそうですが、内容は事実上の「引退勧告」だったそうです。

会談以降の10日間、代打で4打数3安打と結果を残しながらも、自問自答する日々。

そして、引退の決断を下したのです。

10年に右肩の棘上筋をほぼ断裂するという大怪我を負いましたが、このケガが致命傷となりました。

「この3年間はみじめというか、プロ入りして最初の3年と最後の3年はこんな苦しい人生があるのかと」

言葉には実感が込められていました。

まとめ

金本選手は4人兄弟の末っ子でしたが、「アニキ」と呼ばれ、ファンにも愛されました。

金本選手に球団側は最後の花道を用意し、甲子園での古巣広島戦が引退試合となりました。

数々の記録に名を残した虎の背番号「6」の歴史が、幕を閉じたのです。

真弓監督とのエピソードについては、試合に出続けることの難しさを感じさせられました。

連続試合出場という記録について、視聴者の皆さんはどう思いましたか?

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