清原和博にある選手が毎日のように説教していた理由「いるのかいねえのか分かんねえよ」
PL学園時代、KKコンビとして甲子園で名を馳せ、鳴り物入りで西武ライオンズにドラフト1位で入団した清原和博選手。
スター選手として、球団も丁寧に扱っていましたが、一方で厳しい言葉を投げかけたベテラン選手もいました。
当時清原選手を毎日のように説教していたという、1人のプロ野球選手をご紹介します。
鳴り物入り
PL学園では1年生ながら4番を務め、同じく1年生の時からエースだった桑田真澄投手と共に、KKコンビとして甲子園で名を馳せました。
そんな清原選手の凄さを表すエピソードとして、「清原ネット」の話が挙げられるでしょう。
入学当時から規格外の打撃だったため、練習では何回も軽々と練習場の外に打ち込んでしまう清原選手。
安全のためからネットが継ぎ足され、それはいつしか「清原ネット」と呼ばれるようになりました。
またさらに安全を確保するため、左方向に引っ張って距離を出しすぎないように、
右方向へ打つ練習も必要となりましたが、これが清原選手の大きな特徴の一つとも言われる、
右方向へ強い打球を打てる選手になるきっかけでもあります。
そんな清原さんは、5季連続で甲子園に出場。
甲子園での通算13HRは当時の新記録となり、
「甲子園は清原のためにあるのか!?」という名実況も生まれました。
そしてドラフト会議の時期。
清原選手は小さい頃から巨人ファンで、巨人に入団することを希望していました。
ドラフト前にスカウトからも、1位指名を明言されていました。
しかし、実際にドラフト会議で巨人が1位指名したのは、チームメイトの桑田投手でした。
桑田投手は早稲田大学への進学を明言しており、指名は回避すると思われていましたが、巨人が単独指名。
世間では桑田投手が早稲田大学に進学するとメディアに話すことで、
他球団が指名を回避するように仕向けたのではないか、
という密約説が囁かれましたが真相は未だわかりません。
PL学園の野球部員は、桑田投手が裏切ったとして問い詰めようとしましたが、清原選手が止めたそうです。
清原選手は意中の球団に指名されなかったショックを受けながらも、ドラフト1位で指名された西武に入団することを決意します。
ドラフト会議での苦い経験を経て、高卒1年目からレギュラーになった清原選手。
そして1年目から124試合に出場。
打率は.304、31HRというのは高卒1年目の最高記録として未だに破られていません。
オールスターにもファン投票1位で選出され、本塁打を放ち、新人王も獲得しました。
苦言を呈したベテラン選手
高校時代からスター選手として名を馳せた清原選手に、苦言を呈したベテラン選手がいました。
それは、中日から移籍してきた平野謙選手です。
平野選手は81年に入団し、1年目から110試合に出場。
通算1,551安打を放ち、451犠打を記録している献身的なプレーができる選手です。
ゴールデングラブ賞も9回獲得し、盗塁王も獲得したことがある選手で、俊足と堅実な守備が持ち味の選手であり、ホームラン打者の清原選手とは違うタイプといえるでしょう。
平野選手は88年に中日から移籍し、清原選手と出会いました。
この時、年齢はチームの現役選手の中で上から2番目というベテランだった平野選手。
1年目から活躍し、スター選手となっていた清原選手に、周囲は注意することができず、腫れ物に触れるようになっていたようです。
しかし、外部から移籍してきた平野選手には、あまりそう言ったしがらみはありませんでした。
そして、清原選手が挨拶もちゃんとできていない状態ということを平野選手は耳にしており、
「おいキヨ、いるんか?あいさつに来ないからいるのかいないのかわかんねぇよ」
などと言って説教していたようです。
18歳でプロ入りしていきなり活躍したため、先輩との接し方がわからない清原選手に対して、平野選手流の愛のムチだったのでしょう。
平野選手は、78年に名古屋商科大学を卒業して中日に入団しましたが、前年のドラフトで指名を受けた6名のうち3名が入団を拒否したため、ドラフト外で入団したという経緯があります。
高校でもスター選手として大注目を浴びながら入団した清原選手とは、対照的な入団経緯であった苦労人であり、だからこそ若きスター選手をしっかりと指導する必要があると感じたのでしょう。
平野選手は口うるさい先輩が一人いてもいいかなと思い、敢えてそのように接していたと語っています。
名門野球部でしごかれていたとはいえ、高卒でプロ入りして社会人としての基本的な姿勢を学ぶ間もなく活躍し、大スターとなった清原選手にとって、平野選手は良き指導役となっていたのでしょう。
そうして、あえて大スター清原選手の嫌われ役になった平野選手ですが、彼から見て清原選手は周りの噂ほど悪いイメージはなかったとのこと。
生え抜きの選手ではなかったことが結果的に功を奏す形になり、そんな平野選手を清原選手はとても慕っていました。
平野選手が引退し別のチームの指導者となった後も、清原選手は必ず平野選手に挨拶に行ったそうです。
若き日に、苦言を呈してくれた平野選手に感謝していたのでしょう。
平野選手は他の若手選手からも慕われており、西武ライオンズやその後に移籍したロッテでは兄貴分的存在だったようです。
引退後も、最後に所属していたロッテでそのままコーチに就任。
その後も日本ハムや中日、独立リーグの群馬ダイヤモンドペガサスなどのコーチとして選手を指導。
清原選手に指導したように、多くのチームで若手選手に指導を行っています。
まとめ
高校時代から大活躍し、記録にも記憶にも残る存在だった清原和博選手は、プロに入る前からスターといえました。
球団としてもさらに飛躍してほしいところですが、現場の選手含め、そんな鳴り物入りで入団した新人選手というのは、扱いがなかなか難しいものでしょう。
そんな中で、あえて嫌われ役を買って出て毎日のように説教していたという平野謙選手。
彼の存在は、清原選手にとっても大きかったようで、お互いに立場が変わってもかかさずに清原選手の方から挨拶をしにいくとのこと。
ただそんな清原選手も、一時は覚醒剤を使用したことで逮捕されるなど、道を踏み外してしまったこともありました。
この時の平野さんの胸中は、どのようなものだったのでしょう?
現在、清原さんは自身のYouTubeチャンネルを開設し、テレビでは解説者としても活動しています。
いつかまた、平野さんとテレビやYouTubeなどで共演しているところも見てみたいですね。